昭和42年04月15日 朝の御理解
昨日若先生が御本部から帰って参りましてから、もうなにかにのうえに、万事万端の上に御都合送り合わせを頂いて、神乍な御本部参拝が一同できたと言う事を、まあいろいろ御礼御届しておりましたら、そのなかにわざわざ私を尋ねて、あの飯塚の大久保先生がおみえられたそうです。どうじにあの教務所の森所長が尋ねてみえられた。それでこちらから落成式の御案内がしてございましたから、その事も折角御案内受けておるけれども、この度までは出席できないから。
どうぞ私によろしくと言う事であった。大久保先生はああいういろいろ、なんと申しますか大きな方ですから、そんな事はもう無頓着、問題がないのが普通らしんです、もう親先生が側にこう、善導寺の親先生がおられたんですけれども、そんなふうな全然問題せずに、私のこと( ? )話されたと言う事でございましたが、森所長の場合まだ所長としての体面もありますもんですから、甘木との関係の問題が、今まだくすぶっている状態の時ですから。
今教務所が椛目に参りますと言う事は、合楽の方へ参りますと言う事は、また問題になってはならんから、そこんところを懸念してのまあお断りだったらしんです。そう言う様なお話をですね、( ? )聞かせてもらいよりましてから、いっつも思うんですけれど、合楽の場合も椛目の時代からそうでしたけれども、いつも椛目は問題の中にあると言う事ですね。恐らくは合楽のある限りその問題は絶えないだろうと思うですね。私共にとってはさほどに問題でも無い様な事が問題として取り上げられておる。
甘木関係との問題だって、もう私共はほんとに人が助かることさえ出来ればと言う様な、お道の信心の建前からいくなら、もう全然問題ではないこと、が問題になっておるというところに、私はそのいわば問題を感ずるわけなんですけれども。ころがです、椛目の場合、そういう様々な内部的にも外部的にも、そうした問題があるたんびにおかげを受けておると言う事なんですね。だから問題をいとうとか、困ったこととしてはならないということ。もうどこまでも御神意の現れなんだから。
ですからその問題を問題としていけばです、それは難儀であり困ったことであり、おかげに成る筈はないのだけれども、いわゆる問題をその性質をよく見ていわゆるお取次ぎを頂いてお願いをし、その問題によって私共がいよいよ改まらして貰う、清まらして貰うと言う事。いつものように椛目の御大祭の前にはこうして御湿りがね。是なんかはある意味合いで天地が問題に、合楽を問題にしておられるんだと思うんですよ。
ですからそれを考えますと、それはそのいわば明日のお祭りをいよいよすがすがしい、有難い、いやがうえにも有難いお祭りにして下さる為の、いわば祓いであり清めであると言う事を感じますね。例えば天地がこうして雨をもって、祭場全体を清めて下さる。ほんとに素晴らしいことなんですけれども、ただそういうことだけではいけない。椛目も問題のたんびにおかげを受けておるというだけではいけない。その問題そのものがです、いわゆる清まりになっておるかとどうかいうこと。
銘々の個人の問題においてもしかり。家庭の問題においてもしかりなんですね。問題のたんびにその問題を切り抜ける、おかげをこうむったというだけにとどまらず、その問題そのものが、いうならばこの御湿りとおんなじです。その問題そのものが私をどう清めたかと言う事が、私は大事だとこう思うですね。だから問題をいとうてはならん。いやむしろそのことを有難いと受けていかなければならんけど、何故有難いかというと、その問題によって、私共が清められるから有難いのであり。
清められたその器を持って、おかげを受けていくから有難いのですよね。そこんところを思わせて頂く時にです、確かに椛目から合楽に続いて、確かにこのいつも問題の中にある。私はね昨日今月の新聞が見事にこんどひろい、あの普通の新聞位の大きさの、内容も非常に充実しておりまして、立派な新聞がでけております。これはまだお祭り明日皆さんに発表するでしょうが、それ前に私に見てくれといって若先生がもってきました。ま一遍どうり読ませていただいてから。
素晴らしい有難い新聞だなぁと、ほんとに合楽の新聞の機関紙としても恥ずかしくない、学生服の方たちがやってるととは思えない位に、大人びたいわば新聞なんです。ところがです、そのなかに素晴らしいことであると同時に、素晴らしい問題を含んでおる事があると言う事でしたね。はぁここに言うてあることが問題になるのではなかろうかと言う様な記事が一、二あるんですね。椛目の人達じゃない、合楽で御用頂いておる人達はそのことが一番有難いのですけれども。
これがやはり教外になりましたり、同じこの教内でもですね、よその教会の人達が見たら、それを必ず問題にし取り上げ、問題するだろうと思う様な事がある。けれども私はそれを思うんですね。よしそれが私共にとっては問題にならない様な事が問題になるならば、問題になってもいいと私は思います。そのために例えばどのような、なら合楽としては、困った問題にそれがなっていってもです、私はそれはおかげであるとこう思うんです。詳しいここの新聞、この記事をこれは一般に配るのはやめとけとか。
こりゃ困ったなとは思わない、そりゃありがいことだとこう思うんですけれどね。恐らくはこの合楽のある限り、問題はいつもあるだろうと思う。いや問題の中にある合楽というてもいいだろう。その問題がいつも私を清めてくれる。いつも私の信心をより高めてくれるためのそれでしかないと言う事。ですからその問題のあるたんびに、いいますと私はおかげを受けていくと言う事になるわけなんでございますね。皆さんでもどうぞ問題を問題とせずに、問題を信心として受けていくね。
問題の中にある事も有難いのであり、何故有難いかというその問題によって、清められるからである。御大祭を仕える前に何時もの様にこうして御湿りを頂くと言う事は、いよいよそのお祭りを、清々しい清らかなものにして下さる為の神様の働きだと、有難い。けどやはり御用しよるもんは、御用が頂きにくいね。ですからそこんところをです、そのことによって神様がいやがうえにもね、内容的にも清まれよ清まれよとこう言うて下さる、神の声として頂かなければならないと言う事なんですね。
どうぞ。